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2007年12月2日日曜日

19歳が毎月一億円を搬送

当時のトヨタ自動車の取引銀行は、三井銀行と東海銀行だった。
給料日になると、銀行に給料袋への袋詰めをお願いするのだが、当時のトヨタでは銀行から届けていただけないので、こちらから取りに行った。
三井銀行は挙母市(現豊田市)には支店がなかったので名古屋まで車で往復しなければならなかった。まだ19才の私だったがこの現金輸送の担当をさせられたのである。
ジュラルミンの箱に詰めた、合計1億円の給料袋の輸送である。
銀行が強かった時代、迷宮入りになっている、東芝府中の3億円強奪事件も同じで、給料運搬業務を、お客さん側で行うことのを不思議とは思わなかった。
東芝府中との違いは私服の警察官が同乗してくれていたことです。
運転手つきで左ハンドル車の助手席に乗っての、名古屋までの往復で、右ハンドル車の運転感覚が身に付いたのか、その後の運転講習ではAクラスに編入されたというオマケが付いたが。

2007年11月7日水曜日

高卒新入社員も一人前

入社1年目、9月に入って、次年度の採用試験が始まり、内定は身元調査をした上で通知されていた。
私は人事部の1員なので、数人の身元調査を割り当てられ、
上司からは、トヨタから身元調査に来たことが解らないように!、と注文された

高卒の私は夏までは学生服と会社の作業服で通勤し、夏はワイシャツなので、まだ背広は作っていなかった。
叔父さんに頼んで背広を借り、受験者の近隣で評判を聞き歩いた。
「あそこの娘さんは、今高校生なので、まだお嫁さんには出さないと思いますよ。」
嫁取りの身元調査と間違えられたりもしました。
ある人は、住所が、企業の社宅になっていた。
管理人に聞けば解るのではないかと尋ねたら、管理人が受験者の親だったことがある、接待を受けてしまった。
上司に言えば叱られると思うが、飛込みで訪れた飾らない本人の家や親を見る方が、近所で聞くよりよほどよく解ると感じた。
考えてみればまだ新入社員の入社教育の最中にさせられた仕事、なのである。
新入社員教育の仕上げは秋に合宿で行われた。真珠湾に特殊潜航艇で突っ込み、幸か不幸か、座礁して太平洋戦争の捕虜第一号になり九軍神に入れなかった酒巻和男さんが面倒をみてくれた。
大卒の入社教育の仕上げには社交ダンスのレッスンが含まれていたが、高卒にはなかった。
酒巻さんと団体交渉して、高卒も、このレッスンに加えてもらえるようになり、以降クリスマスのシーズンになると楽しいダンスパーティーに参加できた。
まだ10代の新入社員を、このように信頼して仕事をさせ現地現物で体験させて育てた人材が、トヨタの成長をさせる大きな要素になったのだろうと思います。

2007年10月24日水曜日

苦手な英語

子供の頃、母親は田畑の耕作し父親は夜勤も多い会社勤め、日曜日は夫婦で田畑の耕作・・・
子供はガキ大将の後ろについて野原を駆け回るのがしごと!
本など買ってもらったことの、読んでもらったことも、ましてや自分で読書することなどなかった。
そのせいか、高校生になっても読むことが苦手で、特に英語などは、長い単語だと分割しないと読めない始末。
トヨタの入社試験の競争率は10倍近くだった。
ところが、苦手な英語の翻訳問題がすんなりできたのでした。
それは、Carryという単語が多く含まれていたため、解けたようなものでした。
私は高校でバスケット部に所属していましたが、バスケットではキャリングという反則があり、英語というより私には日本語以上の日用語だったのでした。
入社後、IBM者によるコンピュータの講習会に参加したときも、パソコンに興味を持って、解説書を買ったときも、専門用語の横文字で挫折してしまいました。
今、こうしてパソコンが趣味になり、横文字を並べてプログラムを楽しんでいるのがうそのようです。
これも「習うより慣れろ!」という本の巻頭文を信じて、パソコンを買ってなぶったからでした。
バスケットの反則用語もパソコンのプログラム用語も、英語ではなく日常語になって行ったのでした。
50歳代でいち早くパソコンを習得したことが、その後の会社での地位や定年後の人生に大きく役立った。

2007年10月23日火曜日

ソロバンと屁理屈

わたしは商業高校だったので、ソロバンと簿記は必須科目でした。
卒業までに、それぞれ最低3級以上を取得するノルマを与えられていた。
理屈で理解できる簿記は難なく3級に到達できましたが、不器用な私にはソロバンはいつまでたっても4級でした。
高校3年生の冬休みは、学校でスキーに連れて行く行事があったが、ソロバンの補習で連れて行ってもらえないしまつ、友だちはみんな楽しんでいるのに、わびしい高校最後の冬休みでした。
その私が、トヨタに入社して、人事部に配属されソロバンで給与計算をする破目になった。
ソロバンが苦手なので、何とか計算を単純に出来ないか、計算自体を省けないかと一生懸命考えるようになり、事務改善を進めるきっかけになったような気がします。
当時の従業員は電車通勤がほとんどでした、通勤用の定期券は会社が購入手続きをして、本人に配布し、料金は会社補助額と個人負担額に分けて給料から控除していました。
期限が切れるごとに、申込書を集めて手配するのが先輩の手順でした。
この業務を引き継いだ私に、ソロバンでの集計作業がなかなか一致せず苦労の連続でした。
考えてみると、当時の従業員はほとんど地域の住民で、通勤ルートが変るのは稀だったのに着目し、定期券継続購入制に変更しました。
変った人だけ申請してもらうことにし、計算量は数%に減らすことが出来たのでした。
申込書は左端に縦に多くの閉じ穴が並んでいるバインダーカードの2部複写、バインダーカードは1穴ずらして閉じると必要項目が一覧できるように設計しました。そして1部は通勤区間別に閉じ駅への注文用に、もう一部は従業員コード順に閉じて給料控除用の台帳にしました。
今でも4隅が余白と待っているお役所の届け書類を見ると、もう少し工夫すれば楽になるのに、と思います。
手段は1つだけではない、ソロバンが苦手でも別の手段で乗り越えられ、案外より開でいけるものである。
太平洋戦争に日本が負けたのは日本人がソロバンが上手だったせいだ!。 コンピューターをアメリカが開発したのは、大砲の弾道計算を早くするためでしたが 日本軍はソロバンで弾道計算がやれたのでコンピューターの開発に着手しなかったというもっともらしい話を根拠に、屁理屈をいっていました。

「還暦QPON」訪問者1000万人達成を期して

1996年、まだ個人のホームページは珍しかった頃「還暦QPON」と名づけて開設したホームページの訪問者が2007年10月19日、累計1000万人の訪問者を突破しました。
1996年といえばYAHOO!や楽天の創業と大差ない、違いは、還暦をひかえて趣味の延長上で取り組んだか、若い事業家として取り組んだかであった。
もっとも、このとき開いた「還暦QPON」ホームページが、その後に待ち受けていた定年後の日々を、新技術に挑戦できる充実感、全国に仲間が出来、自己表現の場が得られる達成感、マスコミにも取り上げられてこの世界での著名人に加わることが出来た満足感、そして近年はアフィリエイトでお小遣いまでかせげるようになった裕福感、などなど還暦10年を充実して過ごせた、出発点になったような気がします。
このブログは、「還暦QPON」ホームページの訪問者が1000万人を達成したのを記念して開設し、古希を迎えるにあったって、自分史的に回顧した記事を綴って見ることにします。
日記は従来からのブログにあります。